この記事は、夜勤介護マンが介護現場で実際に体験・見聞きした出来事をもとに書いています。個人が特定されないよう、一部内容を変更・再構成しています。介護の実態をリアルにお伝えすることを目的としており、特定の施設・個人を批判する意図はありません。
介護の現実 — リハビリと願い
「自分でトイレに行けたら、
家に帰る」と言うた人。
両下肢に力が入らない車椅子の女性が、毎日立ち上がりの訓練を続けていた話。
▷ この記事でわかること
- 両下肢に力が入らない70代女性が、毎日リハビリを頑張っていた話
- 「自分でトイレに行けたら家に帰る」という、その人の願い
- トイレ介助の現場で起きていた、本人が知らないこと
- リハビリを続けても、その願いが叶いにくいという現実
- 「正直さ」と「優しさ」がぶつかるとき、介護士が選んだもの
介護の現場には、「頑張る理由」を持った人がいる。
ただ漫然と日々を過ごすんやなく、「これができるようになりたい」という、はっきりした目標を持っている人や。その目標のために、しんどいリハビリを、歯を食いしばって続ける。
今日書くのは、そういう人の話や。仮に、北村さんとしておく。70代の女性やった。
北村さんには、はっきりとした「願い」があった。そして、その願いのために、毎日リハビリを頑張っていた。でも——その願いは、叶えるのが難しいものやった。本人が、それにどこまで気づいていたのかは、ワイには分からへん。
その人は、毎日立ち上がる練習をしていた

北村さんは、車椅子で生活していた。
両下肢に力が入らず、自分の足で立つことができなかった。何の病気でそうなったのか——正直、ワイは詳しいところまでは把握していなかった。ただ、足に力が入らない、という事実があった。
でも、北村さんは諦めていなかった。リハビリを、本当によく頑張っていた。
特に熱心にやっていたのが、立ち上がりの訓練やった。手すりや平行棒につかまって、腕の力も使いながら、なんとか立ち上がろうとする。膝に力を入れて、お尻を持ち上げようとする。その表情は、真剣そのものやった。
リハビリの時間以外でも、北村さんは「立つ」ことを意識していた。少しでも足に力が戻るように。少しでも自分の体を、自分で支えられるように。その努力を、ワイは横で見ていた。「この人は、本気や」と感じていた。
「自分でトイレに行けたら、家に帰る」
なぜ北村さんが、そこまでリハビリを頑張るのか。その理由を、本人がぽつりと話してくれたことがあった。
「自分でトイレに行けるようになったら、家に帰るんや」
それが、北村さんの願いやった。
家に帰りたい。でも、今のままでは帰れない。なぜなら、トイレに自分で行けないから。誰かの手を借りないと排泄ができない状態では、家での生活は難しい。それを、北村さん自身がよく分かっていた。
だから、「自分でトイレに行ける」ことが、北村さんにとっての「家に帰るための条件」やった。
立てるようになれば、歩けるようになるかもしれない。歩けるようになれば、トイレに自分で行けるかもしれない。トイレに行けるようになれば、家に帰れる——その一本の線が、北村さんの毎日を支えていた。
両下肢に、力が入らなかった
でも——現実は、厳しかった。
北村さんの両下肢は、力が入らなかった。リハビリを頑張っても、立ち上がりの訓練を続けても、足にしっかり力が戻る、という状態には、なかなか近づかなかった。
介護の現場にいると、こういう場面に何度も出会う。
リハビリは、確かに大事や。やらないよりは、ずっといい。関節が固まるのを防いだり、今ある機能を保ったり、効果はある。でも——「失われた機能を、元通りに取り戻す」ことは、必ずしもできるわけやない。
特に高齢で、両下肢に力が入らない状態というのは、回復に限界があることが多い。
北村さんが、それにどこまで気づいていたのか。ワイには、分からへんかった。「自分でトイレに行けたら帰る」と言い続けながら、毎日立ち上がりの訓練をする北村さんを見ていると——その願いの重さと、現実の厳しさの間で、ワイ自身が言葉を失うことがあった。
トイレ介助の、手順
北村さんは、日中はトイレで排泄をしていた。
「自分でトイレに行けたら家に帰る」と言う人や。オムツの中で済ませることを、北村さんは望まなかった。できる限り、トイレで用を足したい——その気持ちが強い人やった。
北村さんのトイレ介助は、こういう流れやった。
車椅子をトイレの便座の横につける。北村さんに、手すりを腕で支えてもらう。両下肢に力は入らへんけど、腕の力はある。だから、手すりにつかまって、腕で自分の上半身を支えることはできた。
北村さんが手すりを腕でしっかり支えている、その間に——ワイがズボンとリハビリパンツを下ろす。そして、便座にゆっくり座ってもらう。
北村さんの「立とうとする力」と、ワイの介助が、噛み合って成り立っていた。北村さんは、この瞬間も「立つ訓練」のつもりやったのかもしれへん。
腕で踏ん張ると、腹圧がかかる
でも、ここに——本人が気づいていない、ある現実があった。
北村さんが手すりを腕でしっかり支えて、体を持ち上げようと踏ん張る。そのとき、お腹に力が入る。腹圧がかかる。
腹圧がかかると、膀胱が圧迫されて、尿が出てしまうことがある。踏ん張った瞬間に、ふっと尿が漏れる。これは、本人の意志とは関係なく起きる。体の構造上、力を入れると、そうなることがある。
北村さんの場合、便座に座る前の、その「踏ん張る瞬間」に——尿が出てしまっていた。だから、便座にたどり着く前に、下ろしかけたリハビリパンツや、まだ完全に下ろしきれていないズボンに、尿がかかってしまうことが、よくあった。
北村さんは、それに気づいていなかった。
自分が踏ん張った瞬間に尿が出ていることを、北村さん本人は分かっていない。「トイレで用を足している」という意識で、便座に座っている。でも実際には、その前にパンツやズボンが濡れてしまっている。
その事実を、本人には言わなかった
ワイは、その事実を北村さんには言わなかった。言う必要が、なかったからや。いや——言わない方が、北村さんのためやと思ったからや。
考えてみてほしい。「自分でトイレに行けたら家に帰る」と願って、毎日リハビリを頑張っている人に、「あなた、便座に座る前に漏れてますよ」と伝えることに、何の意味があるやろか。
北村さんは、トイレで用を足そうと頑張っている。その頑張りの中で、本人の知らないところで尿が出てしまっている。でも、それは北村さんの努力が足りないからやない。体の構造の問題や。それを指摘して、北村さんを傷つけることに——意味はない。
ワイは、何も言わずに処理した。濡れたリハビリパンツとズボンを片付けて、新しいものに替える。北村さんが気づかないように、自然に。「はい、終わりましたよ」と、いつも通りの声で。
本人が「トイレでちゃんと用を足せた」と思えること。それが、北村さんの尊厳を守ることやと、ワイは思っていた。
介護の現場には、「本人に伝えないほうがいいこと」というのが、確かにある。
何でもかんでも正直に伝えることが、誠実とは限らへん。伝えることで本人が傷つくだけで、何の改善にもつながらないことなら——伝えない、という選択もある。これを「嘘をついている」と言う人もいるかもしれへん。でもワイは、これは「その人の願いと尊厳を守るための沈黙」やと思っている。
「帰れる条件」が、遠かった
北村さんが、本当に家に帰れるのか。その問いに、ワイは早い段階で、答えを知ってしまっていた。たぶん、帰れない。
北村さんの「家に帰る条件」は、「自分でトイレに行けること」やった。でも、それを実現するには、いくつものハードルがあった。
まず、自分の足で立てるようになること。次に、立った状態を保てること。さらに、トイレまで移動できること。そして、便座に座る・立つの動作を、自分でできること。
北村さんは、両下肢に力が入らへんかった。手すりを腕で支えて、わずかに体を持ち上げることはできても、自分の足だけで立つことは、難しかった。
「自分でトイレに行く」というのは、北村さんが思っている以上に、たくさんの能力が必要な動作や。「帰れる条件」は、北村さんが努力で届く場所には、なかったかもしれへん。
それでも、リハビリには意味があった
でも——ここが大事なところやけど、「家に帰れない」からといって、リハビリが無意味やったわけやない。
毎日立ち上がりの訓練をすることで、今ある筋力が保たれる。関節が固まるのを防げる。体を動かすことで、血流が良くなり、体の調子が整う。そして何より——「目標に向かって頑張っている」という気持ちが、北村さんの毎日を、前向きなものにしていた。
もし北村さんが「どうせ帰れない」と諦めて、リハビリをやめていたら。筋力はもっと早く落ちて、体の状態はもっと悪くなっていたかもしれへん。気持ちも、沈んでいったかもしれへん。
「家に帰る」という願いが、北村さんを動かし続けていた。その願いがあったから、北村さんは前を向いていられた。だから、たとえその願いが叶わなくても——願いを持つこと自体に、意味があった。
ワイら介護スタッフは、北村さんに「帰れませんよ」とは言わなかった。
もちろん、医療的な見通しや現実的な状況については、適切な場面で、適切な人(医師やケアマネージャーなど)が、本人や家族と話をする。それは必要なことや。でも、日々の現場で、リハビリを頑張る北村さんに向かって、ワイらが「どうせ帰れない」と水を差すことは、絶対にしなかった。
「正直さ」と「優しさ」が、ぶつかるとき
北村さんへの関わり方を振り返ると、ワイはいつも一つの問いにぶつかる。
「本当のことを伝えない」のは、正しかったのか。
トイレで漏れていることを、伝えなかった。家に帰るのは難しいかもしれないと、はっきりは言わなかった。これを「本人に真実を伝えていない」と批判する人も、いるかもしれへん。
でも、ワイは思う。正直さと優しさは、いつも同じ方向を向いているわけやない。
「あなたは漏れています」「家には帰れません」——これは正直や。でも、これを伝えることで、北村さんは何を得るやろか。改善できることなら、伝える意味がある。でも、本人の努力ではどうにもならないことを突きつけて、希望を奪うだけなら——その「正直さ」は、ただの残酷さになる。
ワイが選んだのは、「優しさ」のほうやった。それが100%正しかったかは、今でも分からへん。でも、北村さんの「前を向く気持ち」を守ることを、ワイは優先した。
願いは、叶わなくても、その人を支える
北村さんの「家に帰りたい」という願いは、たぶん叶わなかった。
でも、その願いがあったから、北村さんは毎日リハビリを頑張れた。その願いがあったから、トイレで自分の力で用を足そうとした。その願いがあったから、前を向いて、今日という日を生きられた。
願いは、叶わなくても、その人を支える。
これは、ワイが20年介護をやってきて、たどり着いた一つの答えや。「叶う願いだけが、価値のある願い」やない。叶うかどうかにかかわらず、願いを持つこと自体が、その人の「生きる力」になる。
北村さんにとっての「家に帰る」は、ゴールやったかもしれへん。でも同時に、それは「毎日を生きるためのエンジン」やった。そのエンジンを止めないこと。それが、ワイら介護者にできる、大切な仕事の一つやと思う。
現場で働く人に伝えたいのは、これや。「その願いが叶うかどうか」を、ワイらが判定する必要はない。ワイらの仕事は、願いの実現可能性をジャッジすることやない。その人が、その願いに向かって生きることを、支えることや。
願いを否定せず、努力に寄り添い、そして——本人が傷つくだけの真実は、そっと胸にしまっておく。それは「嘘」やない。「その人の尊厳を守る」という、介護の本質的な仕事や。
北村さんのことを、今でも思い出す
北村さんのことを、ワイは今でも時々思い出す。
手すりを腕で握りしめて、歯を食いしばって立ち上がろうとしていた、あの真剣な横顔。「自分でトイレに行けたら、家に帰るんや」と言ったときの、まっすぐな目。
その願いが叶ったかどうか、ここでは書かへん。
でも、北村さんが「家に帰る」という願いを胸に、毎日を懸命に生きていたこと——それだけは、確かや。そして、その姿は、ワイの記憶の中で、今も色褪せていない。
介護の現場では、こういう人に何度も出会う。叶うかどうか分からない願いを抱えて、それでも前を向いて生きる人。その人たちの「願い」を、ワイは否定したくない。
たとえ叶わなくても、その願いは、その人が確かに生きていた証やから。
叶いにくい願いを持つ利用者さんに関わっている介護職の人、あるいは家族として「どう接したらいいか」迷っている人——この記事が少しでも、関わり方を考えるきっかけになったなら、夜勤明けにこれを書いてる甲斐があるってもんや。
この記事、もし「読んでよかった」と思ってもらえたなら——
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