この記事は、夜勤介護マンが介護現場で実際に体験・見聞きした出来事をもとに書いています。個人が特定されないよう、一部内容を変更・再構成しています。介護の実態をリアルにお伝えすることを目的としており、特定の施設・個人を批判する意図はありません。
Facility Arc — Episode
真面目な人ほど、不器用さが隠しきれん。
靴下を履いたまま入浴介助していた先輩職員・田中さんの話。
▷ この記事でわかること
- 靴下を履いたまま入浴介助を続けていた先輩職員・田中さんの話
- 誰も指摘できへんまま続いた「変な空気」の正体
- 声が小さいゆえに何度も声をかけて、利用者さんを怒らせてしまった場面
- 「悪意がない人間への指摘」がなぜ現場で一番難しいか
- 20年現場にいて気づいた、不器用な真剣さとの向き合い方
以前、宮本という職員の話を書いた。
手洗いが異常に長くて、仕事終わりに3か所の洗面台を回って、帰ると言うてからもまだ洗ってた人や。
誰も何も言えへんまま、静かな詰まりが積み重なっていった話やった。
今回も、同じテーマやけど——違う形の話をする。
宮本さんの話は「止められへん行動」が見えにくい形をしてた。
でも今回の田中さんの話は——見たら一発で分かる形をしてた。
それでも、誰も何も言えへんかった。
田中さんの話をしようと思う。
田中さんという先輩のこと

田中さんがその施設にいたのは、ワイが1年目のころやった。
田中さんはそのとき9年目——ワイより9年先にこの仕事をしてた、れっきとしたベテランや。
田中さんは細身で、動きが丁寧な人やった。
利用者さんへの声かけは穏やかで、乱暴なところが一切ない。
介助の手順も、教わったことを忠実に守ろうとする。
仕事への取り組みは、ひと言で言うなら——真面目やった。
周囲からの評判も悪くなかった。「田中さんは丁寧やな」「ちゃんとしてるな」という声をワイも聞いてた。
ただ、入浴介助を一緒に担当するようになったとき——ワイはある「こと」に気づいた。
靴下が、濡れてた
入浴介助というのは、水を使う仕事や。
浴室の床は常に濡れてる。だから介護スタッフは、入浴介助のときは必ず「防水の履物」を履く。
それが当たり前のことやった。
田中さんは——靴下を履いたまま、入浴介助に入ってた。
最初に気づいたとき、ワイは「あれ、着替え忘れたんかな」と思った。
でも次の週も、その次も——田中さんの足元は靴下やった。
浴室の床を、靴下で歩く。シャワーの跳ね返りで、靴下が濡れる。
濡れた靴下のまま、利用者さんの介助を続ける。
介助が終わって浴室から出るとき、廊下に湿った足跡がついてた。
田中さんは、それを当たり前のことのようにやってた。
表情が変わるわけやない。嫌そうにするわけやない。ただ、普通にやってた。
誰も聞けへんまま、続いた
ワイが最初に気づいてから、しばらく経った。
他のスタッフも、気づいてたと思う。
でも、誰も何も言わんかった。ワイも、言えへんかった。
「靴下が濡れてますよ」と言えばいい。
「防水の履物に替えてください」と言えばいい。
そんな簡単なことや。でも、その「簡単なこと」が、なぜかするっと言葉にならへんかった。
田中さんが何か悪いことをしてるわけやない。
衛生上の問題は、あるかもしれへん。でも、誰かに直接被害が出てるわけやない。
「言うほどのことやないかもしれへん」と「でもやっぱりおかしい」の間で、言葉が詰まった。
その詰まりが、ワイだけやなく現場全体に漂ってた。
「変な空気」の正体
田中さんの靴下の件が続くにつれて、入浴介助の時間に独特の空気が生まれ始めた。
田中さんが浴室に入る。スタッフが田中さんの足元を、一瞬だけ見る。そして、何も言わずに目をそらす。
「変な空気」というのは、こういうものや。
誰かが何かをやってる。周囲は「おかしい」と思ってる。でも誰も言わへん。
その「言わへん」が積み重なると——その場にいる全員が、おかしいことを見て見ぬふりをしてる感覚になってくる。
田中さんは悪くない。でも、田中さんがいる入浴介助の時間は、どこかぎこちなかった。
言葉にならへんまま漂う「変な空気」が、じわじわと現場の温度を下げていた。
1年目が、9年目に何も言えへんのは当然やった
介護の現場で1年目というのは、ほぼ何も分かってへん状態や。
ミスをしたら叱られる。分からないことがあれば聞かなアカン。でも聞くタイミングも分からへん。
そういう状態のワイが、9年目の田中さんに対して「靴下、なんで履いてるんですか」と言えるか——言えるわけがない。
田中さんは、9年間この仕事をしてきた人間や。
その人に向かって、1年目が「それ、おかしいですよ」とは言えへん。
立場の差が、言葉を飲み込ませた。
これが、誰も言えへんかった理由の一つ目やった。
ベテランが「変なこと」をしてるときの現場の空気
1年目のワイだけやなく、他のスタッフも言えへんかった。
ベテランが何かをやってるとき、周囲はまず「何か理由があるんやろ」と思う。
9年のキャリアは、それだけで「この人はちゃんと知ってる」という権威になる。
その権威が、「指摘すること」へのハードルを上げる。
野村さんの散髪のときも、同じことが起きてた。資格という権威が、フィードバックのループを潰した。
田中さんの場合は、経験年数という権威が、同じことをしてた。
「ベテランがやってることを、若いスタッフが指摘する」——介護の現場では、これが一番難しいことの一つや。
声が小さい人間が、真面目に声をかけようとするとき
田中さんの「不器用さ」は、靴下だけやなかった。
田中さんは、声が小さかった。
介護の声かけというのは、意外と奥が深い。
「これから体を拭きますね」「起き上がりますよ」——利用者さんの動きに合わせて、こちらの動作を言葉で伝えていく。それが丁寧な介助の基本や。
田中さんはそれを、ちゃんとやろうとしてた。
声かけを怠ることなく、手順を踏んで、丁寧に伝えようとしてた。
でも、声が小さかった。
高齢者の多くは、耳が遠い。
普通の声でも聞き取りにくい利用者さんに、田中さんの小さな声は届かへんことが多かった。
田中さんはそれを知ってた。やから、何度も声をかけた。
聞こえへんかったら、もう一度。それでも届かへんかったら、また一度。
その繰り返しが——利用者さんの中に、苛立ちを生むことがあった。
何度も声をかけることで、怒らせてしまった
ある日の介助中やった。
田中さんが利用者さんに声をかける。聞こえてへん。もう一度かける。また聞こえてへん。もう一度——
「うるさい! 何回も何回も!」
利用者さんが声を荒げた。
田中さんは、その場で固まった。
「丁寧にやろうとしたのに」という、どこにもぶつけられへん感情が、表情に滲んでた。
ワイはその場から少し離れたところにいたけど、田中さんの背中を見てた。
肩が少し落ちてた。
何も言えへんまま、介助を再開した田中さんの背中が——靴下で濡れた浴室を歩いてた背中と、ワイの中で重なった。
真面目にやろうとしてるのに、それが裏目に出る。
田中さんに何度もそういう場面があった。
「もっと大きな声で」が、なぜ言えへんかったか——田中さんは一生懸命やってた。声が小さいのは本人も分かってた。やから何度も声をかけてた。その「努力してる姿」が見えてるとき——「それじゃ足りない」とは、言いにくい。
靴下のときと、同じ構造やった。
「悪意がない人間への指摘」が、現場では一番言語化しにくい。
「伝える」ことへの躊躇を、どう乗り越えるか
一つ目。「責める」やなく「情報を渡す」という言い方にすること。
「防水サンダル、一個余ってますよ」は批判やない。情報の提供や。
「もう少し声が大きいと、山田さんに届きやすいかもしれないですね」も批判やない。観察の共有や。
言い方を「評価」から「情報」に変えるだけで、相手の受け取り方が変わる。
二つ目。タイミングを選ぶこと。
業務の最中に「それ、おかしいですよ」と言うのは難しい。でも休憩のとき、申し送りの後、二人になった瞬間——そういうタイミングやったら、少し言いやすくなる。
言えへんのは「言葉がない」のやなくて、「タイミングがない」だけのことが多い。
三つ目。立場の差を言い訳にせえへんこと。
立場の差は「言えへん理由」になりやすいけど、「言わへん選択」を正当化するためのものになってはアカン。
「先輩、一つ聞いてもいいですか」から始めれば、言えることはある。
1年目のワイにも、それはできたはずやった。
20年後のワイが、1年目のワイに言えること
1年目のワイに、今のワイが言えることがあるとしたら——たぶんこれや。
「田中さん、防水サンダル一個余ってますよ」
それだけ言えたら、十分やった。
解決やない。変えることでもない。ただ、一つの情報を渡す。それだけやった。
でも1年目のワイには、その一言が出えへんかった。
「言うことで何かが壊れるんやないか」という恐れが、あった。
今は思う。
言うことで壊れる関係より、言えへんまま積み重なる「変な空気」の方が、現場をじわじわと壊す。
田中さんは今も、どこかの現場にいるんやろか。
靴下を履いたまま、小さな声で丁寧に声をかけながら——真剣に介護をしてるんやろか。
ワイには分からへん。あの施設を離れてから、一度も会ってへん。
ただ、浴室から出てきたときの濡れた足跡だけは、今でもはっきり思い出せる。
真剣やった。不器用やったけど、間違いなく真剣やった。
それだけは、ワイには確かやった。
現場で「真面目やけど不器用な先輩や後輩」に困ってる人、あるいは自分がそういう立場かもしれへんと思ってる人——この記事が少しでも「あ、そういうことか」と思えるきっかけになったなら、夜勤明けにこれを書いてる甲斐があるってもんや。
この記事、もし「読んでよかった」と思ってもらえたなら——
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