この記事は、やきんかいごが介護現場で実際に体験・見聞きした出来事をもとに書いています。個人が特定されないよう、一部内容を変更・再構成しています。介護の実態をリアルにお伝えすることを目的としており、特定の施設・個人を批判する意図はありません。
夜中の2時に、その人は言うた。「うちな、昔は山も走れたんよ」

20年、介護の現場に立ち続けてきた。修羅場も見た。看取りも見た。笑える話も、笑えへん話も、全部この体に刻んできた。41歳になった今も、ワイは夜勤に入る。ユニフォームに袖を通して、フロアに立つ。20年前と同じように。でも——20年前とは全然違う目で、現場を見てる。
夜中の静寂の中で利用者さんが絞り出すあの一言は、20年経った今でも、ワイの胸をえぐる。リクライニング車椅子の上で、四肢が拘縮した体。自分では指一本思うように動かせへん。それでも目だけは、まだ生きてる。その目でワイを見て、言うんや。「うちな、昔は山も走れたんよ」——と。
小柄な体。白髪。固まった両手。その人がかつて山を走り回っていたという事実と、今リクライニング車椅子の上に横たわってる現実の間にある溝の深さを、ワイは毎夜突きつけられる。この言葉に、20年のプロとしてどう向き合うか。答えは簡単には出えへん。出えへんから、今日も書く。現場の毒も華も、全部ひっくるめて書く。綺麗事は一行も要らん。
リクライニング車椅子という「現実」
リクライニング車椅子を使用する利用者さんというのは、介護の現場では「重度」に分類される方が多い。背もたれを大きく倒した状態で過ごすことが多く、自力での体位変換が困難な状態や。頭部をヘッドサポートで固定して、足台に両足を乗せて——その姿勢で一日の大半を過ごす。
四肢拘縮——つまり手足の関節が固まって、思うように動かせへん状態——が重なると、その方の「できること」は極端に限られてくる。食事も介助。排泄も介助。移動も介助。一日の大半を、他者の手に委ねて過ごすことになる。
ワイが20年で学んだのは、「身体の状態」と「その人の中身」は、まったく別物やということや。
手足が動かへん。声も出しにくい。表情も乏しくなってくる。そういう外側の状態だけ見たら、「意思疎通が難しい方」という判断になりがちや。新人スタッフが陥りやすい罠がそこや。「この人には分からへん」「反応がないから関係ない」——そういう思い込みが、じわじわと介護の質を下げていく。ベテランでも、忙しさに飲み込まれると同じ罠に落ちることがある。
でも——違う。中に、ちゃんといる。その人が生きてきた70年、80年の記憶が、全部その体の中に詰まっとる。
リクライニング車椅子の背もたれに頭を預けて、天井を見上げてるその方の目が、突然ワイを捉える瞬間がある。その目の奥に、「今この瞬間、確かに意識がある」という光が宿っとる。その光を見たとき、ワイはいつも背筋が伸びる。
この人は、ちゃんとここにいる。
その事実を、20年間忘れへんようにしてきた。忘れそうになる夜もあった。忙しさに飲み込まれて、「こなす」介護になりかけた夜もあった。でもその目の光が、ワイを引き戻してくれた。何度も、何度も。
介護保険制度が変わっても、変わらへんものがある
ワイが現場に入ったのは、介護保険制度が始まってすぐの頃や。あの頃の現場は、今とはまったく違う空気があった。
制度が始まったばかりで、現場も試行錯誤の連続やった。「介護とは何か」という問いに、業界全体がまだ答えを探してた時代や。記録の書き方も、ケアの方針も、施設によってバラバラやった。「とにかくやってみる」という空気が現場に満ちてた。良い意味でも、悪い意味でも。
あれから20年。制度は何度も改正された。介護報酬の改定があるたびに現場は揺れた。記録のICT化が進んで、タブレットで入力するようになった。身体拘束の禁止が厳格化されて、ケアの考え方が大きく変わった。ユニットケアという概念が広まって、「その人らしさ」を尊重する方向に舵が切られた。
せやけど——変わらへんものがある。
夜中に絞り出される「うちな、昔は山も走れたんよ」という言葉の重さは、20年前も今も変わらへん。制度がどう変わっても、記録がデジタルになっても、その言葉を受け取るのは人間や。そこだけは、機械に代替できへん。AIがどれだけ進化しても、夜中の2時に固まった手の甲に手を置いて「一緒にいる」を伝える作業は、人間にしかできへん。
人手不足は20年前からずっと言われてきた。でも今の深刻さは、当時の比やない。一人のスタッフが抱える利用者さんの数が増えた。夜勤一人体制の施設も珍しくない。そういう環境の中で、「ちゃんと聞く」ことの難しさは年々増してる。
時間がない。余裕がない。でも——「聞く」ことをやめたら、介護はただの「処理」になる。ワイはその一線だけは、20年越えへんようにしてきた。越えそうになった夜が何度もあった。でも越えへんかった。それだけは言える。
夜中だけに現れる「本音」
夜勤の現場には、昼間とは違う「時間の質」がある。
日中は、施設全体が動いとる。食事の時間、リハビリの時間、レクリエーションの時間——スタッフも多く、音も多く、刺激も多い。利用者さんは「施設の日常」の中に組み込まれて、ある意味「役割」を持って過ごしてる。「今日のレクは何やろ」「食事は何かな」——そういう「日常の流れ」が、ある種の防波堤になってる。悲しみや絶望を、日常の忙しさが塗り込めてくれてる。
でも夜は違う。
フロアの電気が落ちて、他の利用者さんも眠りにつく。スタッフはワイ一人か、多くて二人。静寂の中に、その人と二人だけになる時間がある。防波堤が消えた夜の静けさの中で、利用者さんは「昼間は出てこえへん言葉」を出してくることがある。昼間は「大丈夫です」と笑ってた人が、夜中に別の顔を見せる。それが「本音」や。
ワイが忘れられへんのは、ある夜中の出来事や。
ラウンドでその方の部屋に入ったとき、目が合った。眠れてへんのは分かってた。部屋の空気が、昼間と違う重さを持ってた。声をかけると、しばらく間があって——絞り出すような声で言うた。
「うちな、昔は山も走れたんよ」
続けて言うた。「畑もやってた。子どもらの弁当、毎朝作ってた。どこでも自分の足で行けてた」
ワイは何も言えんかった。「そうですか」という言葉が喉まで来て、止まった。「そうですか」じゃ、足りへん気がした。その言葉の重さに対して、あまりにも軽すぎる。でも他に何を言えばええか、分からへんかった。
その方は続けた。「なんでこうなったんやろな」
問いかけやない。答えを求めてるわけでもない。ただ——言わずにはおれへん言葉が、夜中の静寂の中で出てきただけや。その言葉を受け取る人間が、たまたまそこにいたというだけや。
ワイはその方の手の甲に、そっと自分の手を置いた。固まった指。動かへん関節。でも皮膚の温かさは、ちゃんとあった。生きてる体の温かさが、手のひらに伝わってきた。かつて畑を耕し、弁当を作り、山を走ったその手の温かさが。
しばらく、二人でそのままでいた。時計の針だけが動いてた。ワイには、それ以外にできることがなかった。
「元気な頃の記憶」と「今の体」の間にある深淵
介護の現場で長く働いてると、「自己像の乖離」という問題に何度も直面する。
自己像の乖離——つまり、「自分がどういう人間であるか」という内側のイメージと、「今の自分の体が実際にできること」との間に、埋めようのない溝が生まれる状態や。
若い頃に山を走り回っていた女性が、今はリクライニング車椅子の上で一日を過ごす。毎朝家族の弁当を作り、畑仕事をこなし、地域の行事を仕切ってきた人が、今は食事も排泄も人の手を借りなあかん。「あのお母さんはすごい」「あのおばあちゃんに聞いたら何でも知ってる」——そう言われてきた人が、今は自分の名前を呼んでもらうのを待つだけの存在になっとる——本人の主観の中では。
でも——それは本当に「だけ」なのか。
ワイは違うと思う。20年現場に立って、確信してることがある。
リクライニング車椅子の上で「うちな、昔は山も走れたんよ」と言える人は、まだ「自分の歴史を持っている人」や。その言葉は、単なる嘆きやない。「うちはこういう人間やった」という、自己の証明や。尊厳の発露や。その言葉が出てくる限り、その人の「自分」はまだ生きてる。消えてへん。
その言葉を「また始まった」と流すか、「この人が今ここで生きている証拠」として受け取るか——介護士としての20年で、ワイが一番こだわり続けてきた部分がそこや。
正直に言う。流したくなる夜もある。
夜勤の後半、体は限界に近い。ナースコールは重なる。記録も残ってる。そんな状態でその言葉を聞いたとき、「はいはい、そうですね」と流して次のラウンドに向かいたくなる気持ちが、ないとは言えへん。それが人間や。それが現場の現実や。その気持ちを「なかったこと」にするのが「プロ」やと思てた時期もあった。
でも——それをやってしまったとき、ワイは必ず後悔する。
その方が「言えた夜」に、ワイが「聞かへんかった」という事実は、消えへん。その方にとって、夜中に絞り出せた言葉は、そう何度も出てくるもんやない。体力も、気力も、要る。その一回を、ワイが流してしまったら——それはもう取り返せへん。
この「取り返せへん」という感覚が、ワイを20年現場につなぎとめてきた理由の一つやと思う。
拘縮という「体の記憶」
四肢拘縮について、少し掘り下げて書く。
拘縮というのは、関節周囲の筋肉や皮膚、腱が固まって、関節の動きが制限される状態や。寝たきりや車椅子での長時間同一姿勢、脳卒中後遺症、廃用症候群——様々な原因で起こる。介護の現場では、日常的に向き合う「体の現実」や。
拘縮が進んだ体は、見た目だけでなく、介護する側にも独特の「重さ」を伝えてくる。
清拭のとき、固まった腕をそっと広げようとする。少しずつ、丁寧に。無理に伸ばしたら痛みが出る。でも動かさへんかったら、さらに固まっていく。このジレンマの中で、毎日手を動かし続けるのが介護士の仕事や。「動かす」と「無理をさせへん」の間の、ほんの細い道を探しながら。その細い道を外れへんように、20年間手を動かし続けてきた。
拘縮の進行には「段階」がある。最初は可動域が少し狭くなる程度や。それがやがて、特定の角度以上は動かせへんくなる。さらに進むと、関節が完全に固定された状態になる。この進行を「止める」ことは難しい。でも「遅らせる」ことはできる。そのために、毎日の丁寧なケアがある。一日さぼったら、その一日分だけ進行する。それが拘縮の残酷さや。
ワイが現場で一番しんどいと感じるのは、拘縮の「進行」を目の当たりにする瞬間や。
半年前まで、まだ手を握り返してくれてた。指が少し動いてた。「今日も来てくれたんやね」と言うように、ほんの少し指が動いた。それが——気づいたら固まってる。握り返す力が消えてる。その変化に気づいたとき、ワイは何も言えへんくなる。進行を完全に止めることはできへん。でも「仕方ない」とも思いたくない。その葛藤を、20年抱えたまま手を動かし続けてる。
拘縮した体に触れるとき、ワイはいつも思う。この固まった関節の一つ一つに、この人が生きてきた時間が詰まってる。山を走った足。畑を耕した手。子どもの弁当を作り続けた指。孫を抱き上げた腕。家族のために動き続けた、その全部が、今この形で存在しとる。
「体の記憶」とでも呼ぶしかないものが、そこにある気がする。固まった関節は、その人が生きてきた証拠や。ワイはそう思うことにしてる。そう思わへんと、拘縮した体と毎日向き合い続けることは、精神的にしんどすぎる。これはワイなりの「現場で生き延びるための哲学」や。綺麗事やない。現場20年が辿り着いた、生存戦略や。
夜中に繰り返される言葉の「意味」を、20年かけて考えてきた
「うちな、昔は山も走れたんよ」
この言葉が夜中に繰り返されるとき、介護士としてどう受け取るべきか。これは、現場の人間なら一度は突き当たる問いや。
教科書的な答えは「傾聴」や。利用者さんの言葉に耳を傾け、共感し、受け止める。それは正しい。でもワイが20年で感じてきたのは、「傾聴」という言葉が時として、現場の本質をきれいに包みすぎてしまうということや。傾聴という「技術」として処理してしまうと、その言葉の本当の重さが見えへんくなる。「傾聴できました」という自己満足で終わってしまう。
本当の意味で「聞く」というのは、しんどい作業や。
夜中の2時に、疲弊した体で、その人の「昔山を走れた話」を聞く。その言葉の奥にある「今の自分への絶望」を感じ取りながら、それでも「あなたはここにいる」と伝え続ける。これは技術やない。技術を超えたところにある、人間対人間の営みや。マニュアルには書けへん部分や。研修で教えられへん部分や。
ワイが気づいたのは、繰り返される言葉には「繰り返される理由」があるということや。
「うちな、昔は山も走れたんよ」が夜中に何度も出てくるのは、その言葉を「受け取ってもらえた実感」が得られてへんからかもしれへん。あるいは——受け取ってもらえたとしても、翌朝になったらまたその「絶望」が戻ってくるから、夜中にまた言わずにはおれへんのかもしれへん。一晩受け取ってもらえても、次の夜にはまたゼロになる。その繰り返しの中で、その人は生きてる。毎夜、また戦ってる。
どちらにしても、繰り返しを「また言ってる」と捉えるか「まだ言える」と捉えるかで、介護の質は根本から変わる。
ワイは「まだ言える」の側に立つ。20年、それだけは変えへんかった。
繰り返しの言葉には、もう一つの側面がある。「言い続けることで、自分の存在を確認してる」という側面や。「うちはこういう人間やった」と言い続けることで、「今の自分」が「かつての自分」とつながっとるという感覚を保ってる。そのつながりが切れたとき、人は急激に弱ってしまうことがある。ワイは現場でそれを何度か見てきた。「言葉が出なくなった」直後に、状態が急変した方が何人かいた。言葉が出ている間は、まだその人の「自分」が戦ってる証拠や。だからワイは、その言葉を絶対に流さへん。
ポジショニングと声かけ——技術の話をする
ここで少し、現場の技術的な話をする。
リクライニング車椅子での長時間の姿勢管理は、介護士の重要な仕事の一つや。ただ乗せておけばええわけやない。ずり落ちを防ぐ体位の調整、褥瘡予防のためのクッションの配置、頭部の角度管理——これらを適切にやらへんと、利用者さんの体はどんどん傷んでいく。見た目は「座ってる」でも、中身は「体が崩れていってる」状態になりうる。
拘縮のある方のポジショニングは、特に繊細さが要る。固まった関節を無理に動かさへんよう、でも適切なポジションを保てるよう——クッションの位置を数センチ単位で調整する。この作業は、経験を積まへんと「正解」が見えてこえへん部分や。マニュアルに書いてある通りやっても、その人の体の状態によって全然違う結果になる。「この人にはこの角度」という感覚は、手が覚えるもんや。頭で覚えるもんやない。
褥瘡の怖さも、20年で何度も目の当たりにしてきた。同じ姿勢で長時間過ごすと、圧迫された部分の皮膚が壊死していく。最初は赤みだけや。でも放置したら、あっという間に深い傷になる。リクライニング車椅子での長時間同一姿勢は、褥瘡のリスクと常に隣り合わせや。だから体位交換のラウンドがある。だから夜中も動き続ける。「眠ってはる間に悪化する」を防ぐために、ワイは夜中も歩き続ける。
声かけについても、20年で考えが変わってきた。
新人の頃、ワイは「明るく元気な声かけ」が正解やと思てた。「今日もいいお天気ですね!」「ご飯おいしいですか!」——そういう声かけをすることが、利用者さんへの「サービス」やと思てた。元気な声で話しかけることが、利用者さんを元気にすると信じてた。
でも——違った。
「うちな、昔は山も走れたんよ」と絞り出した人に、「そうですね!元気出してください!」は残酷な言葉や。その人の絶望に蓋をする言葉や。明るさで塗りつぶすことは、「聞いてへん」と同じや。むしろ「あなたの言葉は、受け取る価値がない」というメッセージになりかねへん。
20年で辿り着いた声かけの核心は——「一緒にいる」を伝えることや。
言葉は要らへんときもある。手を置くだけでええときもある。ただそこにいて、その人の言葉を「受けた」という事実だけを伝える。「あなたの言葉は、ちゃんとここに届いた」——それだけで、夜中の孤独が少し和らぐことがある。ワイはそれを、何度も現場で確認してきた。
40代現役の体が教えてくれること
41歳になって、ワイ自身の体が変わってきた。
20代の頃は、夜勤明けでも「寝たら回復する」感覚があった。多少無理しても、翌日には元に戻れた。体が若さで帳尻を合わせてくれてた。30代になって、それが少し怪しくなってきた。夜勤明けの翌日に「まだ疲れが残ってる」と感じる日が出てきた。そして40代——回復に明らかに時間がかかるようになった。夜勤明けの翌日、まだ体に「夜勤の残滓」が残ってる感覚がある。頭の霞が、午後になっても晴れへん日がある。
これが「老い」なのかどうか、ワイには判断できへん。でも体の変化は確実にある。そしてこれは、現場を続ける上での「現実」として受け入れるしかない。受け入れた上で、工夫する。それしかない。
この「自分の体の変化」を実感するようになってから、利用者さんの言葉が以前より深く刺さるようになった気がする。
「うちな、昔は山も走れたんよ」
20代のワイがこの言葉を聞いたとき、どこかに「遠い話」という感覚があったと思う。老いること、体が動かなくなること——それは「いつか来るかもしれないこと」であって、「今の自分には関係のないこと」やった。共感しようとしても、どこかに「ガラス越しに見てる」感覚があった。
でも41歳のワイがこの言葉を聞くとき、「遠い話」やない。朝の一歩目の重さ。長時間立ち続けた後の足の疲れ。夜勤明けの頭の霞。階段を上るときの膝の違和感——これらはまだ「老い」の序章に過ぎへんかもしれへんけど、確実に「体の変化」を感じ始めてる。「思うように動かへん」という感覚の、ほんの入口に立ってる。
その経験が、利用者さんの言葉への解像度を上げてくれてる。
「昔は山も走れた」という言葉の重さが、以前より鮮明に分かるようになった。走れた頃の自分と、今の自分の間にある溝の深さが、少しだけ実感として近づいてきた。ガラス越しやなくて、薄い膜一枚越しくらいの距離感になってきた気がする。
これが「20年現場に立ち続けた介護士が40代になる」ということの、一つの意味やとワイは思う。体が少しずつ「利用者さんの側」に近づいていくことで、見えてくる景色が変わる。それは喪失やなくて、「深み」やとワイは捉えてる。40代になって初めて分かることが、介護の現場にはある。
嫁が現場で学んできたこと
嫁も同じ介護職や。別の施設で、同じような利用者さんと向き合い続けてる。
嫁はワイより「言語化」が上手い。現場で感じたことを、的確な言葉にする力がある。ワイが「なんとなくしんどい」と感じてることを、嫁は「それはこういうことやで」と言語にしてくれる。同業者の夫婦ゆえの、独特のコミュニケーションや。
ある夜、嫁がこんなことを言うた。
「拘縮した体に触れるとき、その人の人生に触れてる気がする」
ワイが「体の記憶」と表現したことを、嫁は別の言葉で言うてた。でも本質は同じや。固まった関節の一つ一つに、その人が生きてきた時間がある。その時間に敬意を持って触れることが、介護の「技術」の土台になるということ。技術は大事や。でも技術の前に、「この人の人生に触れてる」という意識があるかどうかで、ケアの質が根本から変わる。
嫁はまた、こうも言うてた。
「夜中に繰り返される言葉を、しんどいと思う自分を責めへんようにした」
これは正直な言葉や。繰り返しを「また」と思う瞬間が、現場の人間には必ずある。それを責めてたら、続けられへん。「しんどいと思う自分」を認めながら、それでも「まだ言える」の側に立ち続ける——嫁はその折り合いの付け方を、現場で学んできた。
嫁が現場で大切にしてることの一つに、「夜中の言葉は特別扱いする」というのがある。日中の発言と、夜中の静寂の中で出てきた言葉は、質が違う。夜中の言葉には、その人の「核」に近いものが含まれてることが多い。昼間は「大丈夫です」と言える人が、夜中には「なんでこうなったんやろな」と言う。その落差の中に、本音がある。嫁はそれを長年の現場で感じ取って、夜中の言葉には特に丁寧に向き合うようにしてると言うてた。
ワイら夫婦は、帰宅後にこういう話をする。晩飯食いながら、あるいは夜勤明けのぼんやりした頭で。「今日こんなことがあってな」「どう思う?」——そのやり取りが、ワイらにとって現場を続けるための「燃料補給」になっとる。
同業者の夫婦やからこそできる話がある。「今日、拘縮の方の清拭してたら、なんか泣きそうになった」——これを一般の人に話しても、なかなか伝わらへん。でも嫁には一発で伝わる。「分かる」の一言が、現場で削られた部分を少し補填してくれる。その「分かる」が積み重なって、ワイら夫婦の現場との向き合い方の核心を作っとる。
「プロ」であることの葛藤と核心
20年現場に立ち続けて、「プロ」とはなんやと何度も自問してきた。
技術があることか。知識があることか。感情を切り離して冷静に対応できることか。夜勤明けでも笑顔でいられることか。どんな状況でも「大丈夫です」と言えることか。
ワイの答えは——違う。全部違う。
感情を切り離したら、介護はできへん。利用者さんの言葉に何も感じへん人間が、「清潔な介護」はできても「人間としての介護」はできへんとワイは思う。感情を切り離すことを「プロ」と呼ぶなら、ワイはそのプロにはなりたくない。
「うちな、昔は山も走れたんよ」という言葉を聞いて、何も感じへんのはプロやない。感じた上で、それをどう扱うかを知っとるのがプロや。しんどさを感じながら、それでも次の動作に移れるのがプロや。胸が痛くても、手は丁寧に動かせるのがプロや。泣きそうになりながら、それでもその人の前に立ち続けられるのがプロや。
しんどいと感じる。胸が痛い。でも次のラウンドに行かなあかん。記録も書かなあかん。——その全部を抱えながら、それでもその人の言葉を「受け取った」という事実を、自分の中に確かに残して前に進む。それがワイの考える「プロ」の姿や。
20年で気づいたのは、「プロ」の定義は変わっていくということや。
20代のワイが考えてた「プロ」は、「何でもこなせる人間」やった。体力があって、知識があって、どんな状況でも対応できる——そういうイメージや。30代になって、「プロ」の定義が「経験を次の人間に伝えられる人間」に変わった。自分だけが現場を回せるやなくて、チームとして現場を守れる人間が「プロ」やと思い始めた。
そして40代の今——ワイにとっての「プロ」の定義は、「自分の限界を知りながら、それでも現場に立ち続ける人間」やと思てる。体の衰えを認めながら、それでも工夫して続ける。感情が揺れることを認めながら、それでも利用者さんの前に立つ。完璧やない自分を抱えながら、それでも「ちゃんとしようとする」——その姿勢そのものが、40代のプロの証やとワイは思う。
綺麗事に聞こえるかもしれへん。でもこれは20年の現場が教えてくれた、綺麗事やない核心や。「また始まった」と流した夜の後悔と、「ちゃんと聞けた」夜の充実感——この二つを何百回も経験して、ワイはようやくこの核心に辿り着いた。答えが出るまでに、20年かかった。20年かけて辿り着いた答えやから、誰かに否定されても揺らがへん。
夜勤という孤独——一人で夜を守るということ
夜勤の孤独について、もう少し書く。
一人夜勤というのは、文字通り「一人でフロア全体を守る」状態や。急変があっても、転倒があっても、最初に対応するのはワイ一人や。応援が来るまでの数分間、一人で判断して、一人で動く。その数分間の重さは、やったことがない人間には説明できへん。
その孤独は、「寂しい」とは少し違う。「重い」という感覚に近い。フロアに眠る利用者さん全員の命が、今夜はワイの判断に委ねられてるという重さや。この重さを、20年背負い続けてきた。背負い続けることで、背中が鍛えられてきた。
夜中の2時、フロアが静まり返った中でナースステーションに座ってると、不思議な感覚になることがある。世界で自分だけが起きてる気がする、あの感覚や。外は真っ暗で、施設の中の小さな明かりだけが現実で、ここが宇宙の中心みたいな——そういう不思議な孤立感。
でもその孤立感の中で、「うちな、昔は山も走れたんよ」という声が聞こえてくる。その声が、ワイを現実に引き戻す。「今夜もここに、生きてる人がいる」という事実が、孤独な夜勤の「意味」を作ってくれる。ワイが夜中に起きてる理由が、その声の中にある。
夜勤の孤独は、ワイを削ることもあるけど、同時にワイを鍛えてもきた。一人で判断する経験が、判断力を育てた。孤独な夜に利用者さんと向き合った経験が、「人間と向き合う力」を育てた。誰も見てへん夜中に、それでも丁寧にケアし続けた経験が、ワイの介護士としての「芯」を作った。20年の夜勤が、今のワイを作っとる。
嫁も同じ孤独を知ってる。別の施設で、別のフロアで、同じ夜中に同じ重さを背負って立ってる。ワイらがすれ違いながら生活できてるのは、この「同じ孤独を知ってる」という事実があるからやと思う。言葉にせんでも、分かり合えてる部分がある。それがワイら夫婦の、見えへん絆や。
夜が明けても、言葉は残る
夜勤が明けて、外に出る。朝の光が目に刺さる。世界が動き出してる時間に、ワイの「仕事終わり」がある。出勤してくる日勤スタッフとすれ違う。「お疲れ様でした」の一言を交わして、施設を出る。
車に乗り込んで、ハンドルを握る。その瞬間、夜中に聞いたあの言葉が戻ってくることがある。
「うちな、昔は山も走れたんよ」
朝の光の中で、その言葉を反芻する。あの瞬間、ワイはちゃんと受け取れたか。あの固まった手の温かさを、ちゃんと伝えられたか。言葉にならへんかったけど、「あなたはここにいる」ということを、ちゃんと届けられたか。
答えは、いつも曖昧なままや。
「ちゃんとできた」と言い切れる夜勤は、20年で一度もなかった。何かしら「あのとき違う動き方ができたんちゃうか」と思う部分が、必ずある。完璧な夜勤なんてない。完璧な介護なんてない。それは20年経っても変わらへん事実や。
でも——「ちゃんとしようとした」という事実だけは、自分の中に残せる。その積み重ねが、20年分のワイの介護士としての歴史や。後悔と充実感が混ざり合った、ごちゃごちゃした歴史や。でもそのごちゃごちゃが、ワイの現場の「本物」や。
リクライニング車椅子の上で、四肢が拘縮した体で、それでも夜中に言葉を絞り出すその人が——ワイに介護士であり続ける理由を、毎夜教えてくれてる。その人が「まだ言える」間、ワイは「ちゃんと聞こうとし続ける」。それだけや。それだけで、20年続けてこられた。それだけで、もう20年続けられる気がする。
現場を続けるすべての人へ
この記事を読んでくれてる人の中に、同じ現場にいる人がいると思う。
夜勤明けで疲れ果てて、それでもスマホでこういう記事を読んでる人。「また始まった」と思ってしまった自分を責めてる人。利用者さんの言葉が刺さりすぎて、うまく切り替えられへん人。夜中の静寂の中で、自分がなんのためにここにいるのか分からへんくなった人。もう限界かもしれへんと思いながら、それでも明日の夜勤のシフトが入ってる人。
ワイから言えることは一つだけや。
刺さるのは、ちゃんと向き合ってる証拠や。
何も感じへんくなったとき、その人は現場を離れる時期が来てる。感じ続けてる間は、まだこの仕事を続ける資格がある。しんどさと誇りは、表裏一体や。どちらかだけやない。両方抱えて立ってる人間だけが、夜中の「うちな、昔は山も走れたんよ」をちゃんと受け取れる。
体を守ることも忘れへんでくれ。
利用者さんのそばに立ち続けるためには、自分の体が動き続けなあかん。無理をし続けたら、いつか現場を離れる日が来てしまう。それは利用者さんにとっても、現場にとっても損失や。だからこそワイは、体を守る工夫を怠らへんようにしてる。嫁も同じや。二人で現場を続けるために、日常の細かい工夫を積み重ねてきた。道具にこだわることも、その一つや。
ワイはこのブログで、現場のリアルを書き続ける。綺麗事やない、毒も華もある、20年分のリアルを。次の記事では、ワイら夫婦が現場を生き抜くために実際に頼ってきたアイテムについて書いていく。体を守ることは、仕事を続けることや。利用者さんのそばに立ち続けるための、現実的な話をする。読んでくれ。
少しでも参考になれば嬉しいです。