介護の仕事を始めて20年が経つ。

その言葉を口にするたびに、自分でも「そんなに経ったんか」と妙な感慨があって、しばらく天井を見上げてしまう。20年て、なんや。子どもが生まれて成人するやん。オリンピックが5回あるやん。それだけの時間を、ずっとおんなじような場所で、おんなじような匂いの中で過ごしてきた。

特養、老健、グループホーム。今は住宅型有料老人ホームで夜勤に入っとる。施設は変わっても、夜の空気はどこもだいたいおんなじや。消灯後の廊下の静けさ、夜中の3時に漂うポータブルトイレの臭い、認知症のおばあちゃんが「帰らせてくれ」と呟く声。ベテランになれば「慣れる」と思われるかもしれへんけど、慣れへんのよ。慣れたら終わりやと思ってるから慣れへんようにしてる、というほうが正確かな。

せやけど今日は、そういう重い話とはちょっと違う。

今日書くのは、俺がまだ新人やった頃の恥の話や。

新人のうちは「恥」も仕事のうちやと思えてた

入職したての頃、俺は毎日ビビりながら仕事してた。

先輩の動きは速い。利用者さんの名前と顔が一致せん。トイレ介助のやり方もおむつ交換も、マニュアルで読んだはずなのに実際やったら全然ちゃう。失禁を処理しながら「こんな仕事、俺に向いてるんか?」て何度思ったかわからへん。

でもな、不思議なもんで、現場に慣れることよりも人間関係に馴染むことの方が先に必要やった。利用者さんとの関係もそうやけど、まず職員の輪に入ること。あの施設特有の空気感、暗黙のルール、笑いのツボ。そういうものを掴まんと、仕事自体がうまくいかへん。

孤立した介護士は危ない。これは今でも思う。

仕事で判断に迷ったとき、「あの先輩に聞けばいい」という関係性があるかどうかで、利用者さんへの対応の質が全然変わってくる。馴染めていない新人は、わからんことをわからんと言えんくて、一人で抱えて、ミスをする。それが事故につながることもある。

だから俺は、馴染むためなら恥もかくと思ってた。新人のうちは。

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出し物を8人で担当することになった

その年の忘年会は、12月の半ばやったと思う。

職員だけで集まる忘年会やった。普段は夜勤明けで顔を合わせるだけの人間が、ちょっとした料理と余興で騒ぐ、あの年末の定番。そこで新人職員8人が「出し物を担当せよ」という指令を受けた。

言うてみれば洗礼や。

毎年、新人が何かしらやらされる。先輩たちはニヤニヤしながら「なんでもええよ、楽しいやつ頼むわ」と言うだけで、内容には一切口を出さへん。つまり「自分たちで考えろ」というプレッシャーと、「失敗したら笑ってやる」という期待が混在しとる。

俺たち8人は休憩室に集まって話し合った。

「何する?ダンスとかできる人おる?」
「無理やって、練習する時間もないし」
「歌は?カラオケとか」
「ただ歌うだけやったら面白くないやん」

結局、出てきた案が「コントと歌の合体」やった。当時めちゃくちゃ流行ってた「千の風になって」を歌いながら、志村けんのコントでお馴染みの「白鳥」を演じる、というものや。

誰が言い出したかは覚えてへん。でも俺が「それ、やろか」と乗ったのは覚えてる。

今思えば、なんでそこで手ぇ挙げたんやろ、とは思う。でも当時の俺には、それが「場に貢献できるチャンス」に見えたんやと思う。笑いを取れたら、先輩たちとの距離が縮まる。そういう打算と、あと少しだけ目立ちたい気持ちもあったんかもしれへん。

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白鳥の衣装と「千の風になって」

衣装は手作りやった。

8人それぞれが白い布を頭からかぶって、首の部分をうねうね動かす「白鳥スタイル」。8羽そろって「千の風になって」を真剣な顔で歌う。ギャップで笑いを取る作戦や。練習と言えるほどのものもないまま、「本番で合わせよう」という雑な結論で当日を迎えた。

本番当日、会場はすでに独特の熱気に包まれていた。仕事終わりの職員たちがビールを片手に並んでる。天井の電灯が白く照らす中に、先輩・後輩・上司がぎゅっと集まってる、あの独特の空気。

俺たち8人は廊下で衣装をつけながら、もう心臓がバクバクしてた。白い布の中に頭を突っ込んで、「俺ら今何やってんねん」という気持ちと「でもやるしかない」という腹のくくり方が、ぐるぐると混ざってた。

BGMがかかった。

「私のお墓の前で 泣かないでください……」

あの曲の、あの出だし。静かなピアノの音。荘厳なメロディ。

それに合わせて8人の白鳥が一列になって登場した。

一瞬、会場がしん、となった。

そのあと、どっと笑いが起きた

先輩職員たちが腹を抱えてた。「なんやそれ!」という声が飛んだ。俺たちは恥ずかしいのと嬉しいのが半々で、でも笑いが来た瞬間に腹が決まって、そっからはもうフルスロットルや。8人全員で首をうねうねさせながら、それでも歌だけは真剣に歌った。8羽の白鳥が「千の風になって」を熱唱する光景は、傍から見たら相当おかしかったはずや。

今思えば、あれは本当に恥ずかしい。

でもあの日、俺たちは確実に「場」に受け入れてもらったと思った。終わった後、いつも怖かった先輩が「お前らなかなかやるな」と笑ってくれた。あの一言が、8人みんなにとって、この職場で最初の「手ごたえ」やった。

そういうことが積み重なって、俺は介護の仕事を続けてきた。

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あの夜があったから今の俺がある

新人の頃に「恥をかく」というのは、単に笑われることやない。

自分の殻を破って、その場に飛び込む経験やと思う。介護の仕事って、ある意味ずっとそれの繰り返しや。利用者さんの前で、先輩の前で、家族の前で、自分がうまくできへんことを晒しながら、それでも関係性を作っていく。

完璧な介護士なんておらへん。

失敗して、恥かいて、笑われて、それでも次の日も夜勤に入って、ゆっくりベテランになっていく。あの忘年会の白鳥が、20年の夜勤の最初の一歩やったとは言わへん。でも、確実にその一部やったとは思う。

今の施設に来て、また新しい人間関係を一から作っとる。40代になっても、新しい職場では俺も「新人」みたいなもんや。立場は違えど、馴染むための努力は変わらへん

あの白鳥の格好で学んだことが、今もどっかに残ってる気がする。恥をかく覚悟が、人と人をつなぐこともある。

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20年前と今で、何が変わって何が変わってへんか

あの忘年会から、もう20年以上が経つ。

当時の施設は、今と比べるとある意味おおらかやった。良く言えば人間味があって、悪く言えばざっくりしすぎてた。記録はほぼ手書き。引き継ぎは口頭が基本。「とりあえずやってみろ」が教育の主軸で、先輩の背中を見て覚えるしかなかった。それが当たり前の時代やった。

今はどうや。

電子記録、ヒヤリハット報告、感染対策マニュアル、身体拘束廃止委員会、虐待防止研修、ハラスメント対応フロー。書類の種類だけ見たら、当時の10倍くらいあるんちゃうかと思う。手続きと記録が膨れ上がって、現場の職員は「介護をする時間」より「書く時間」の方が長くなりかけてる施設すら存在する。

書類が増えることは、必ずしも悪いことやない。

記録が残れば事故の検証ができる。マニュアルがあれば新人も動きやすい。制度として「やってはいけないこと」が明文化されたのは、業界として前進した部分や。俺はそれを否定する気はない。

ただ、現場の空気が変わったのは確かや。

あの頃の忘年会みたいな「新人が恥をかく場」は、今の施設にはほとんどない。あったとしても、誰かが「ハラスメントになりませんか」と言い出す。忘年会そのものが任意参加になって、参加率が下がって、規模が縮小されていく。それ自体は時代の流れやし、強制的に参加させるのはあかんと思う。でも結果として、職員同士がざっくばらんに繋がる機会が減った

俺たち8人が白鳥をやることで先輩と距離が縮まったあの体験は、今の職場では成立しにくくなってる。

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「新人が育たない」という現場の本音

最近の施設で繰り返し聞く言葉がある。

「最近の子は、すぐ辞める」

先輩職員たちが言うこのセリフ、俺は半分正しくて半分ずれてると思う。

確かに離職率は高い。介護業界全体の話として、3年以内に辞める職員の割合は、他業種と比べてもかなり高い水準で推移してる。新人が入っては辞め、入っては辞め、ベテランは慢性的に疲弊していく。この構造自体は20年前から変わってへん。変わってへんどころか、少子化が進んで求職者の数自体が減った分、むしろ悪化してる

問題は「すぐ辞める」のが「最近の若者の気質」やと片付けてしまうことや。

俺が見てきた限り、新人が辞める理由は大体3つに絞られる。

想像と現実のギャップ — 「人の役に立てる仕事」と思って来たのに、実際は排泄介助と書類と体力勝負やった

孤立 — 相談できる先輩がいない、または相談しにくい雰囲気がある

給料 — 身体的・精神的な消耗と、手取りの金額が釣り合わない

①と③は業界構造の問題やから、現場レベルでは解決しきれへん部分もある。でも②は違う。孤立は、現場の人間関係で防げる

ここが20年前と今で一番大きく変わった点やと俺は思う。

あの頃は、良くも悪くも「新人をこき使いながら巻き込む」文化があった。忘年会の出し物もそうやし、業務中の雑談も、休憩室での愚痴の共有も、全部が「場を作る装置」として機能してた。しんどくても「みんなしんどいんや」という連帯感があった。

今はその装置が壊れかけてる。

ハラスメント対策が進んだことで「先輩が後輩に無理を言ってはいけない」という意識が生まれた。それ自体はええ。でも副作用として、先輩が新人に踏み込めなくなった。距離を保つことが「正しい関係性」みたいな空気が生まれた。その結果、新人は職場に居場所を見つけられないまま、静かに辞めていく。

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施設が抱える「構造的な歪み」の正体

もう少し踏み込んで話す。

「利用者ファースト」という言葉の陰で

施設のパンフレットには必ずある言葉、「利用者様中心のケア」「その人らしい生活を支える」。俺はこの言葉が嫌いなわけやない。理念としては正しいと思う。

ただ現実として、夜勤1人で20人を見ながら「その人らしい生活」を実現しろと言われても、物理的に限界がある。コール対応、服薬確認、深夜の体位変換、徘徊対応、急変時の対応。それを一人でこなしながら「個別ケア」ができるかというと、できへん日の方が多い。

それをわかってて施設は「1人夜勤」の体制を続ける。なぜかというと、人件費の問題やから。介護報酬の単価は国が決める。施設側が自由に値段を上げられるわけやない。限られた収入の中で人件費を最大化できへんから、夜勤は最低人数で回す。これが構造や。

現場職員が「もっと人を増やしてほしい」と言っても、管理職は「わかってる、でも経営的に難しい」と返す。経営者は「報酬単価を上げてほしい」と国に向かって言う。国は「財源が」と言う。その間でいちばんしわ寄せを受けるのが、夜勤の職員と、夜中に一人でコールボタンを押す利用者さんや。

「記録」が現場を守るためではなく、「施設を守るため」になっている

事故が起きたとき、記録が「きちんとあること」が施設を守る。逆に言えば、記録は職員を守るためではなく、法人を守るために整備されてきた側面がある

「なぜこの記録が必要か」を丁寧に説明せずに「書いておいてください」と言う施設は今でも多い。記録の意味がわからない職員は、作業として書く。作業として書かれた記録は、内容が薄くなる。薄い記録は、いざというとき誰も守らへん。

俺が新人やったあの頃、記録の質は低かったかもしれへん。でも「なんでこれを書くか」を先輩が教えてくれる場面は、今より多かった気がする。怒鳴られながらでも、理由が伝わってた。今は怒鳴れへんから、理由も伝わりにくくなってる部分がある。

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それでも現場に残り続ける理由

ここまで書いてきたことは、全部本当のことや。

人手不足、低賃金、書類の増加、孤立する新人、制度の歪み。どれも解決しにくい問題で、俺一人が声を上げてどうなるもんでもない。それはわかってる。

それでも俺が夜勤を続けるのは、夜中の現場にしかないものがあるからや。

消灯後の施設は、昼間とは別の顔を持つ。昼間はシャキッとしてはるおじいちゃんが、夜になったら「もう帰らせてくれ」と泣く。普段ほとんど喋らへんおばあちゃんが、夜勤の俺だけに昔の話をしてくれることがある。戦時中のこと、亡くなったご主人のこと、子どもたちへの気持ち。そういう言葉は、昼間には出てこない。

夜中の2時に、暗い廊下で二人きりで話すあの時間。

あれは夜勤をやってる人間にしか持てへん。

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あの施設で待ち受けていたもの

忘年会が終わって、年が明けた。

白鳥の一件で職場に馴染んだ俺たちは、少しだけ呼吸が楽になった気がしてた。先輩に声をかけてもらえる回数が増えた。休憩室で自然に話せるようになった。利用者さんの名前も、ほぼ全員覚えた。「新人やった自分」から「職場の一員」に少しずつ変わっていく感覚があった。

ただ、馴染むというのは安心することやない、とすぐに気づいた。

馴染んだからこそ、見えてくるものがある。職場の中の人間関係のねじれ、特定の先輩への不満が積み重なっている空気、利用者さんへの対応で意見が割れる場面。新人のうちは「よそ者」やから見えへんかったものが、内側に入った途端に全部見えてくる。

俺が入って半年も経たんうちに、職場は少しずつ揺れ始めた。

最初の「急変」

夜勤を覚えて3ヶ月目やったと思う。

夜中の巡回中に、Mさんの様子がおかしかった。呼吸が浅くて、顔色が土色になってた。「いつもと違う」という感覚が、身体より先に来た。先輩に電話して、救急を呼んで、家族に連絡して。その一連の流れを、俺は半ばパニックになりながらこなした。

Mさんはそのまま病院に搬送されて、数日後に亡くなった。

初めての「看取れなかった死」やった。正確には看取りの場にいたわけやないけど、あの夜が最後やったという事実は変わらへん。搬送される前に俺が握った手の感触が、しばらく残ってた。冷たくて、でもまだ力があった。

「この仕事はこういうもんや」と先輩に言われた。そうやな、と思いながら、でも簡単に「そういうもんや」と処理できへん自分もいた。その両方が共存したまま、次の夜勤に入った。それが介護士の日常やと、そのとき初めて腑に落ちた。

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馴染んだ先に見えてきたもの

その施設で、俺はいろんなことを経験した。

利用者さんから「死にたい」と言われた夜。家族から心ない言葉をぶつけられた朝。同僚が突然出勤しなくなって、残された人間で回した週。管理職の判断に納得できなくて、でも従うしかなかった場面。認知症の利用者さんに毎晩同じ話を聞き続けて、ある日その話が出なくなったとき。

一個一個は書ききれへん。でも全部、俺の中に残ってる。

介護の仕事の「波乱」は、ドラマみたいな大事件やない。じわじわと、毎日少しずつ積み重なる小さな衝撃の連続や。その積み重ねが、人を鍛えることもあるし、静かに壊すこともある。

俺が辞めへんかったのは、たぶん運もあった。

限界やと思ったタイミングで、誰かが助けてくれた。愚痴を聞いてくれた同僚がいた。「お前のおかげやった」と言ってくれた利用者さんがいた。そういう偶然の積み重ねで、俺は今もここにいる。強さやなくて、運と縁で続いてきたと思ってる。それが正直なところや。

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あの白鳥の夜、俺はまだ何も知らんかった

忘年会で笑いを取ったあの夜。

先輩に「お前らなかなかやるな」と言われて、8人で「やったな」と笑い合って、俺は「この仕事、やっていけるかもしれへん」と思った。それは本当のことやった。

でも同時に、俺はまだ何も知らんかった

利用者さんが死ぬということ。職場の人間関係が壊れていくということ。自分の身体が少しずつ削れていくということ。夜中に一人で判断を迫られる孤独。20年かけてようやく見えてくるこの仕事の輪郭を、あの夜の俺は何一つ知らんかった。

白い布をかぶって首を振りながら、会場の笑い声の中に立ってた8人は、この先に何が待ってるかを知る由もなかった。

それでよかったと思う。

全部わかってたら、続けられへんかったかもしれへんから。

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折れない、というのは強いことやない

20年経った今、同じように現場で苦しんでる人に伝えたいことがある。

俺は「折れない介護士」を目指してきたわけやない。折れたことは何度もある。夜勤明けに駐車場で10分動けへんかった朝もあった。「もう辞めよか」と思いながら更衣室で着替えた夜もあった。利用者さんを怒鳴りそうになって、トイレに逃げ込んで深呼吸したこともある。

それでも続けてこられたのは、折れへんかったからやない

折れた後に、また立ったからや。それだけのことや。

「折れない心を作る」という言葉が好きやない。心は折れるもんや。折れへんように鍛えることより、折れたときにどう戻るかを知っとくことの方がよっぽど大事やと俺は思う。20年の現場でそれだけは確信してる。

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同業者に伝えたい、個人でできること

業界の構造はすぐには変わらへん。人手不足も賃金も、俺一人がどう頑張っても動かへん部分がある。それを前提に話す。

その上で、自分の身体と心を守るために今日からできることを、綺麗事なしで書く。

① 「消耗を記録する」習慣を持て

夜勤明けに感じた身体の状態、精神的にしんどかった出来事、「今日は限界やった」という感覚。これを誰かに言わんでもいいから、メモ一行でも残しておく。

人間は慣れる生き物やから、ジワジワ削られてることに気づかへん。毎日少しずつ摩耗していくと、「これが普通」と脳が書き換えてしまう。記録があれば、3ヶ月前の自分と今の自分を比較できる。「俺、だいぶしんどくなってるな」と気づくためのデータを持っておく。それだけで、限界を超える前に動けるようになる。

② 「辞める」をタブーにするな

介護の仕事をしてると、「辞めたい」という気持ちを持つこと自体に罪悪感を覚える人が多い。利用者さんへの責任感、チームへの申し訳なさ、「この仕事を選んだんやから」という謎の縛り。

辞めることは逃げやない。限界を超えて壊れてから辞めるより、適切なタイミングで辞める方が、次の職場の利用者さんのためになる。

俺が見てきた中で、一番怖いのは「辞めたいのに辞めれへんまま、心が死んでいく職員」や。身体は現場にいるけど、目が死んでる。利用者さんへの言葉が機械的になってる。そういう状態になる前に動くことを、俺は弱さやと思わへん。

③ 「わかってくれる人間」を一人だけ持て

職場の中でも外でもええ。介護の現場をわかってる人間が一人いるだけで、全然違う。愚痴を言うためやない。「俺のしんどさを説明せんでも通じる相手」がいるというだけで、孤立感が変わる。

同業者のSNSをフォローするだけでもええ。「自分だけやない」と思える回路を、意識的に作っておく。

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利用者の家族へ

介護職やない人、施設に家族を預けてる人にも少しだけ伝えたいことがある。

施設の職員は、あなたの家族のことを「業務」として処理してるわけやない。夜中に何度も起き上がって、名前と顔を覚えて、その人の「いつもと違う」を察知しようとしてる。完璧にはできてへん。でも、やろうとしてる

「もっとちゃんとしてほしい」という気持ちはわかる。大切な家族を預けてるんやから当然や。ただ、面会に来たときに職員に一言「いつもありがとうございます」と言うてもらえると、それだけで夜勤に向かう足が少しだけ軽くなる。金でも制度でもなく、その一言が現場を動かしてることがある。これは本当のことや。

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白鳥から20年

忘年会で白鳥の格好をして「千の風になって」を歌ったあの日から、20年以上が経った。

あの頃の俺には、20年後もこの仕事を続けてるイメージなんか全くなかった。ただ目の前の夜勤をこなして、先輩に怒られて、利用者さんの名前を覚えて、それだけで精一杯やった。

今の俺は何が変わったか。

技術は上がった。判断が速くなった。利用者さんの「いつもと違う」を察知する精度が上がった。夜中に一人でいても、以前ほどは焦らへんようになった。それは確かや。

でも、緊張は消えてへん

夜勤前になると今でも少しだけ胃が重くなる。「今夜は何が起きるかわからへん」という感覚は、20年前と変わらへん。それが消えたとき、たぶん俺はこの仕事を辞めるときやと思う。緊張が続く限りは、まだやれる。

白鳥の格好で笑いを取ったあの夜、先輩たちが腹を抱えて笑ってくれた。あの光景は、今でもどこかに残ってる。介護の仕事が報われる瞬間というのは、劇的なものやない。ほとんどは、ああいう小さい一瞬の積み重ねや。

それだけで20年続けてこられた、と言うたら綺麗事に聞こえるかもしれへん。

でも、俺には本当のことや。

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今夜も誰かが夜勤に入る。

暗い廊下を一人で歩いて、コールに応えて、誰かの眠りを守ってる。その人に、俺は「お疲れさん」と言いたい。それだけや。

ここまで読んでくれてありがとう。
夜勤明けの俺に、コーヒー一杯だけ奢ってくれる気持ちがあったら嬉しい。
書き続ける力になります。

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やきんかいご

介護歴20年・現役夜勤介護士。高齢者施設で見てきた現場のリアルを、関西弁でそのまま書いています。特養・老健・グループホームを経て、現在は住宅型有料老人ホームに勤務。